覚え書き・渓内謙『現代社会主義を考える』

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スターリンはマルクスやレーニンの国際主義を捨て、代わりにナショナリズムを導入した。マルクスやレーニンの国家死滅論も捨て、国家権力の最大限の強化へと進んだ。その結果として成立した1930年代のスターリン主義体制は現代の各国の社会主義体制の祖型となっている。国際主義や国家死滅論は、なぜ、どのように捨てられたのか。これが渓内氏の問題設定である。

ナショナリズム

渓内氏は、マルクス主義の本来の国際主義に反し、ナショナリズムは現代社会主義体制の基本的理念になっている、と指摘する。そしてナショナリズムをハンス・コーンに従って「国民の圧倒的多数の至高の忠誠を、現在の、もしくは希望する国民国家に集中させる」政治信条とする。このようなナショナリズムと社会主義の関係が矛盾をはらんでいることは、1978年の中国とベトナムの戦争によって誰の目にも明らかになったという。

ナショナリズムが現代社会主義体制の基本的理念になったのは、スターリンが一国社会主義論をうちだしてからのことだ。それ以前には、ロシア革命はヨーロッパ革命の導火線として理解されており、社会主義は国際的な秩序とされていた。一国社会主義論はこのような国際主義を否定し、社会主義秩序を国民国家の枠内に押し込めた。ヨーロッパ革命が挫折したことや、ネップにより国内経済が復興したことを背景となり、一国社会主義論はナショナリズムと共鳴して支持を得たという。

しかし、社会主義とナショナリズムの矛盾が噴出する状況を踏まえるならば、両者の関係は改めて問いなおされなければならない。「ナショナリズムのいまももつ肯定的側面をそのなかにとりこみながら、またその否定的側面に対してきびしく対決することのできる、より高い統合の原理が摸索されなければならない」(p76)。渓内氏は一つの例としてグルジア民族問題へのレーニンとスターリンの対応を紹介する。レーニンは少数民族であるグルジア人の要求を支持し、スターリンは拒否した。レーニンは少数民族に対する「譲歩とおだやかさ」を説いた。

以上のような渓内氏のナショナリズム論に対しては、二つの問題点を指摘することができる。

第一に、一国社会主義論はナショナリズムと共鳴して支持を得た、という渓内氏の指摘は実証的根拠が不明なことだ。渓内氏は一国社会主義論をめぐる論争当事者ではなくハンス・コーンが1968年に出版した著書によってナショナリズムを定義している。しかし、トロツキーの『裏切られた革命』は一国社会主義論の勝利を単なる既成事実の追認と見なしており、ナショナリズムによりかかった、とは批判していない。一国社会主義論を国際主義の放棄と見なすことは可能だが、それをただちにナショナリズムの導入と結びつけるのは難しいのではないか。

第二に、社会主義とナショナリズムの「より高い統合の原理」という漠然とした方向性しか提案できていないことだ。これはナショナリズムの概念がもともと曖昧なためだ。しかし問題はもともとは明確だった。レーニンは(したがってボリシェヴィキは)民主主義革命の観点から民族問題を取り扱った。被抑圧民族が民族国家を形成する権利を民族自決権とし、民主主義革命の概念に含まれるものとして認めた。この原則を前提として、個別の被抑圧民族の独立要求に対しては、民主主義の観点からみて進歩的な意義を持つと評価できれば支持すべきだ、とした。この理論構成からは、統合されるべきなのは社会主義とナショナリズムではなく社会主義と民主主義ということになる。ナショナリズムという曖昧な概念を持ちこむ必要はない。

国家

マルクス、レーニンは、共産主義社会において国家は死滅するものと考えていた。ところが、実際には最大限に強化された国家が現れることになった。なぜそうなったのかを考えるにあたり、渓内氏は「党」に焦点をあてる。「党」とは共産党またはそれに準じる政党のことであり、制度的に独占的地位が保障されている。この一党支配体制こそが現代社会主義体制の根幹をなしている、という。

一党支配はロシア革命後の内戦によって強いられて始まった。にもかかわらずそれが制度として定着した理由を渓内氏は二つ挙げる。第一に、一党制の観念は存在しなかったが多党制の積極的構想もなかった。国家が死滅すれば党も死滅する、とボリシェヴィキは考えていた。第二に、いったん出来上がった組織がそれ自体独自の運動の論理をもち、逆にそれを創った人びとを規制するという逆説に対する洞察が欠けていた。

一党支配のもとで党は変質し、組織原則が民主主義的中央集権主義から一枚岩主義へと変わっていった。民主主義的中央集権主義では、党の意思は民主主義的に下から形成されることになっていた。意思決定後も少数意見留保の権利は保証されており、分派形成も自由だった。しかし一党支配のもとでは、社会の多様な利害が一つの党に表出の回路を求めることになり、民主主義的原則は維持できなくなるという。また、レーニン死後のボリシェヴィキが急速に党員を増やして大衆政党化したことも一枚岩化の要因になったという。渓内氏は大衆政党化が組織の官僚制化を引き起こすというウェーバーやミヘルスの議論を引き合いに出している。

このような一党支配や組織の官僚制化による党の一枚岩化は1920年代末の「上からの革命」によって完成する。とりわけ重要視されるのが1928年の穀物調達危機に対して取られた「非常措置」である。国家機関ではなく党が、しかも農民との合意なしに強制的に穀物調達を行なった。社会的組織であるべき党が国家と癒着し、党は国家に対して社会の様々な利害を表現するのではなく社会に対して国家の意思を表現することになった。この党と国家の癒着により、党に反する者は国家に反する者ということになった。

以上のように党の役割の変容に注目することで「社会」から「国家」への転換を確認する渓内氏の試みは、スターリン主義体制の重要な特質を解明するという点では成功していると言える。しかし、党の役割がどのように変わったかを解明しても、なぜ変わったのかを解明したことにはならない。なぜ国家死滅論に反する現実が産み出されたのか、という最初の問題に対する回答にはなっていない。党の変容にこだわりすぎたため、国家の変容を理解できなくなっているように見える。

ボリシェヴィキ以外の政党が禁止され、ボリシェヴィキ内部で分派が禁止されたのは、1920年代の初期である。その時点で既に民主主義的な政治制度は死んでおり、一般市民の政治的権利も奪われている。1920年代末の「非常措置」による変化は穀物調達という行政レベルでの変化にすぎない。渓内氏が強調するほど決定的な重要性があるとは思えない。

また、党の分析に集中することで、渓内氏は国家権力の分析だけでなく生産関係の分析をもおざなりにしてしまっている。「上からの革命」に関して渓内氏が注目するのは「国家」と「社会」の関係であって、「社会」の変化ではない。農業集団化によって農村の生産関係が変わり、国家権力による農業生産の支配が確立したことは、渓内氏の枠組の中では重要性を持たない。集団化が強制的に進められたという過程が問題にされるだけである。しかし、国家権力による生産の支配はスターリン主義体制の本質にかかわる特徴と言っていいはずだ。

ただし、国家権力による生産の支配はスターリン派だけの目標ではなかった。生産手段の国有化を社会主義的政策とみる見解はボリシェヴィキ全体が共有していたからだ。この観点に立つとき、「上からの革命」がボリシェヴィキにとって決定的な転換だったかどうかも疑わしくなる。