現代思想フォーラムはどんな思想を産み出したのか?

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ニフティ訴訟を考える会というグループの編集で『反論 ネットワークにおける言論の自由と責任』(光芒社)という本が出版された。数年前にニフティサーブ(現在はアット・ニフティと改称)を舞台にして起こされた訴訟に関し、被告側のグループが自分たちの主張を明らかにしたものだ。

事件の概要は次の通りである。1993年から1994年にかけて、ニフティサーブ内の現代思想フォーラムにおいて、[Cookie]と[LEE THE SHOGUN]という二人の会員のあいだで対立が起こり、LEE氏はCookie氏を激しい言葉で非難した。するとCookie氏はそれを名誉毀損と見なして訴訟を起こした。LEE氏だけでなく、現代思想フォーラムの管理者とニフティサーブも彼の発言を放置したという理由で被告とされた。1997年に出された東京地裁の判決は原告の主張を大筋で認めるものだった。

私は1993年の暮れにニフティサーブに入会し、現代思想フォーラムには1994年のはじめ頃からアクセスしはじめた。94年2月頃からフォーラム内のいくつかの会議室で積極的に発言するようになり、以後3年ほどのあいだ、マルクス主義に関する理論的な問題や経済学の話題を中心にして様々な議論に参加した。私が積極的に参加していた時期は、事件が訴訟へと発展し、その意味がフォーラム内で繰り返し議論されていた時期と重なっている。

しかし、当時の私は訴訟の問題についてはなるべく触れないようにしていた。運営の問題よりも社会科学や思想の問題のほうが私にとって重要だったからだ。現代思想フォーラムの運営方針(つまり訴訟における被告側グループの考え方)には批判的だったので、何度かスタッフと対立したこともあるが、まとまった形で意見を述べたことはなかった。現代思想フォーラムから離れ、ニフティからも退会してしまった今、あらためて当時を振り返って彼らとの相違を確認しておくのも悪くはないだろう。

「現代思想」を忘れたローカル・ルール

『反論』の著者たちが繰り返し強調しているのは「自己責任原則」である。この原則は現代思想フォーラムのローカル・ルールとして明文化され、彼らによって繰り返し自賛されている。

従来のメディアとは違い、ネットワーク社会では「反論権」ははじめから保証されている。名誉毀損にあたる発言があったとしても被害者がその場で反論することによって名誉の回復をはかることができる。管理者が介入する必要はないし、するべきでもない。ただしプライバシーを侵害するおそれのある発言に関しては、反論しても被害の拡大を防げないため、発見次第管理者がただちに削除する。これがローカル・ルールの基本的な考え方である。

私はこの基本思想そのものには異論がなかったし、現在もない。パソコン通信やインターネットを従来のメディアの延長線上で捉え、同じ原則での統制を主張する論者は現在でも少なくないし、97年の東京地裁判決もそういう立場から下されているが、それらに対してこの「言論には言論で対抗せよ」という原則を主張していくことは是非とも必要である。

しかし、この原則はネットワーク社会一般にあてはまる一般的で抽象的な原則にすぎない。これだけでは現代思想フォーラムという特定の場の運営方針にはならないのだ。現代思想を議論する場は、旅行の体験を語り合う場やUnixについての情報交換を行う場とは違う。その違いをどう考えるかが問題なのだ。

この点はローカル・ルールの制定当時も議論されたようだ。第一章を執筆した市川智氏は当時の次の発言を肯定的に引用している。

われわれが議論してきた「ローカル・ルール」の内容は、そんなに「特殊」なものだったでしょうか? むしろこれは、あらゆるフォーラムにお薦めできるものだったのではないでしょうか?(略)現代思想フォーラムで重ねてきた「ローカル・ルール」の論議内容は、管理・運営の方法を「思想」的に吟味する内容をもっていた。しかし、その「ローカル・ルール」自体の内容は、特殊現代思想フォーラムのみに通用するものではなく、どのフォーラムにも十分お薦めできる普遍的な性格を持つものである。(純 94年5月20日)

このような意見が支持された結果、ローカル・ルールの文案からは現代思想フォーラムの特殊性を強調する文言は取り除かれたのだという(111ページ)。

私はこの議論には当時参加していなかったので、ここで取り除かれた文言がどのようなものだったのかは知らない。しかし、現代思想フォーラムのルールであるにもかかわらず、現代思想フォーラムの特殊性を一切含まないルールを制定するなどということは、本質的に誤った決定だったと思える。

私が参加していた当時の現代思想フォーラムでもっとも活発だったのは運営について議論する会議室だった。現代思想フォーラムは思想的な話題や時事問題について議論するための場なのに、それを忘れて運営会議室にしかアクセスしていないように見える会員も少なくなかった。これはまさにローカル・ルールの抽象性を反映した状況だったと言える。ネットワーク社会一般にあてはまる抽象的な原則にすぎないので、哲学や政治学など個々の分野に関心がなくても議論に参加することができたのだ。第五章を執筆している川辺陽子氏のように、訴訟のニュースを聞いて現代思想フォーラムに入会した、と書いて平然としている者までいる。いったい現代思想フォーラムに何を期待して来たのか、疑問を感じないわけにはいかない。

現代思想に関心のない者が増えればフォーラム本来の趣旨はかすんでしまう。門前払いするわけにはいかないだろうが、原告側のCookie氏が管理責任を追及したことの反動として「自己責任」や「言論の自由」ばかりを一面的に強調した運営方針は、実際には現代思想フォーラムの議論の質を低下させる役割を果たしていた。

ネットワークにおけるグレシャムの法則

私にとって、現代思想フォーラムで論争するのは本当に大変な作業だった。何か反論されるたびに関連する文献を読み直し、必要な文献が手元にないときは書店へ走り、ガツガツと読み飛ばして返答を書いた。数十分で返答が書ける場合もあるが、そういう返答は無内容なので議論の水準を落としてしまう。かといって数週間何も返答しなければ「逃亡した」との非難を免れることはできないし、他の参加者が議論を先に進めてしまうので返答の機会を逸することになりかねない。論争が始まると自由時間はすべてそのために吸い取られ、息をつく間もない日々が続いた。

しかし、いくら自由時間をつぶそうと、理論的な蓄積や周到な調査に基づいた投稿記事は、その場限りの感情を表出しただけの投稿記事とは共存しえない。前者を書くのは時間がかかり、数日悩んで結局何も書けないこともあるのに対し、後者は機関銃の早さで大量に繰り出すことができるからだ。

「言論には言論で対抗せよ」という原則の前提は、論争の参加者の間に論争自体についての合意が存在することである。南京大虐殺についての論争は、虐殺の事実を認める側と否定する側の双方が、議論によって問題を明らかにするという点で合意していなければ成り立たない。どちらか一方が論争の主題を忘れ、論争相手の人格を攻撃し始めたりすれば、論争はただちに崩壊してしまう。

市川智氏によれば、マスコミで訴訟が報じられると現代思想フォーラムに入会希望者が殺到し、「中には、現代思想フォーラムは何を言っても削除されないらしいと誤解し、口汚ない罵声をこととする者も居たが、そのうち飽きたのか誤解に気付いたのか去っていった」(141ページ)。これを読むと現代思想フォーラムに罵倒表現があふれたのはほんの一瞬だったかのようだ。しかし、私がアクセスしていた全期間を通じて、冷静な議論とは無縁の罵詈雑言であふれかえっていたのが現代思想フォーラムだった。

その殺伐とした雰囲気がある意味での解放感をもたらしていたのも事実である。運営スタッフの統制が強く、参加者がつねに上目づかいで議論しているようなフォーラムもあった中で、現代思想フォーラムは誰にも気兼ねなく発言できる場として機能していた。このことの意義は小さくない。しかし、現代思想フォーラムの目的は現代思想に関する議論であって、「言論の自由」はあくまでもその範囲のものでなければならなかったはずだ。

このように「言論の自由」の制限を肯定することは、Cookie氏らの主張を認めることと同じではない。彼女らが主張するのは言論の内容を統制することだが、私が認めるのは討論の場を維持するための統制であり、場を破壊しようとする確信犯に対する統制である。しかし当時の運営スタッフにはこのような区別はなかった。「言論の自由」を金科玉条とする彼らの下、罵詈雑言が大手を振ってまかり通り、多くの参加者を閉口させていた。

インターネットに公共的言論空間は創出できるか?

現代思想フォーラムにおいて「言論の自由」を保証することは現在ではあまり意味がなくなった。インターネットが普及した結果、誰もがWebページで自由に意見を書くことができるようになったし、メーリングリストや掲示板を開設すれば討論の場の管理者にも簡単になれるようになったからである。ある所で言論が弾圧されたら他の場所に移ればいいだけなのだ。

『反論』の執筆者の中で、この時代の変化をもっとも明確に肯定しているのが坂本旬氏である。

パソコン通信という限られたネットワーク資源しかなかった時代とは異なり、現在ではCR運動をやりたければすぐにホームページでもBBSでもメーリングリストでも作ることができます。誰にも許可はいらないのです。特定の会員を排除したければ、自由にそうすることができます。また、逆に、「男のふぇみにずむ」というホームページを作りたいと思えばそれもまたかんたんにできます。「男のふぇみにずむ」などというものは許し難いからといって、プロバイダに訴えても削除されることはないでしょう。(371ページ)

この認識からすれば、ニフティのフォーラムは無意味に窮屈な場にすぎない。坂本氏が今やパソコン通信には関心がなくなったと語っているのも当然だろう。

しかし、誰もが管理者になれるという時代の到来は、現代思想フォーラムでかつて問われた問題を少しも解決していない。Web上のあちこちにメーリングリストや掲示板が乱立した結果、異質な他者同士が一同に会する場が成立しにくくなり、「共感のサークル」ばかりができているというのが現在の状況だからだ。現代思想フォーラム程度の公共性すら成立しにくいので、ローカル・ルールも必要とされない。掲示板で何かトラブルが起これば、原因となった者を排除するか、または掲示板そのものを廃止することで終わってしまう場合が多い。これはある意味でCookie-LEE事件以前の状況に戻ってしまったのだと言ってもよい。

坂本氏はかつて、「電子ネットワークと現代思想」という論文の中で、市民運動のための手段として通信ネットワークを利用するのではなく、通信ネットワーク自身を運動と見なす視点を提案していた(『季刊 思想と現代』第38号、1994年)。社会を変えるために通信ネットワークを利用するのではなく、通信ネットワークそのものの中に新しい社会関係をつくりだすという運動もありうる、という視点である。匿名・平等といったネットワークの特性により、そこで形成される人間関係は非権威的なものとなるので、運動の理念は「脱権威」だとされていた。

現在では誰もがインターネットを利用しはじめているので、ネットワーク以前に知り合っていた仲間がWebページやメーリングリストを作るケースも多くなってきた。匿名性・平等性はインターネットの特性とは言えない。しかしそれでも、ネットワーク上での新しい人間関係の形成を運動論の観点から捉えた点は、現在でも有効性を失っていない。しかし本書で見るかぎり、現在の坂本氏には昔の自説のような運動論的視点はまったく感じられない。個々人が自由に発言できる場が確保されていればそれでよい、という弛緩した自由主義しかそこにはない。

誰もが発言の場を持ち、「共感のサークル」を自由に作れるという状況の中で、誰が何をすれば公共的な言論空間を創り出すことができるのか。この問題は依然として今後の課題として残されている。