フォーラム90sの解散

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今月の5日と6日、フォーラム90sの第9回総会が開かれ、フォーラム90sは解散することになった。

フォーラム90sが発足したのは1990年12月。その前年に起こった東欧革命が日本においても社会主義に対する激しい逆風を引き起す中、新左翼系の活動家や市民運動家や大学の研究者が集まって今後の展望を議論するためにできたものだ。月刊誌、市民講座、年末フォーラムの三つを活動の柱としてきた。

フォーラム90sの歴史は92年頃までの初期、94年頃までの中期、それ以後の後期に分けることができる。初期のフォーラム90sには多彩な顔ぶれが揃い、活気があった。90年暮の発会フォーラムには廣松渉、平田清明、降旗節雄といった各学派のリーダーというべき人たちが参加した。会員数も着実に増加して92年暮には1,000人弱となり、会員誌として出発した『フォーラム90s』は92年5月から市販化されて『月刊フォーラム』となった。しかし、この拡大路線が放漫財政と結びついて財政危機を招き、中期には数百万の累積赤字に直面して身動きが取れなくなってしまった。そこで雑誌制作費の切り詰めや専従事務員のパート化によって地道に財政を再建し、累積赤字を解消したのが後期である。初期の活気と後期の財政再建はひとまず評価されてよいのではないかと思う。

最後の運営委員長となった白川真澄氏は、12月5日の解散総会に提出した活動報告案の中で、フォーラム90sの当初の目標として次の五つを挙げている。(1)思想や立場や経験の違いを相互に認めあった自由闊達な討論の場となる。見解の違いが分裂になり暴力的抗争にまで至る悪しき作風を自覚的に克服し、左翼の新しい組織や文化のスタイルを創りだす。(2)研究者・学者と運動家・活動家の間に思想的・理論的な探求における新しい協力関係を創りだす。(3)各々の専攻・研究領域の壁を越える学際的な交流と協力を実現する。(4)オルタナティブな社会像を構想する作業を共同で進める。

第一の目標については、白川報告は「成功した」という評価を下している。たしかに、90年の発足フォーラムを明治大学の和泉校舎で開こうとして狭間派に脅迫されたり、94年の年末フォーラムに革マル派が押しかけてきて荒派と殴り合いになったりしたにもかかわらず、全体としては暴力に頼らない形での運営がなされた。しかし、そのことは「自由闊達な討論の場」が実現されたかどうかとは別の問題だ。年末フォーラムは報告者を多く立てすぎて討論の時間が取れないことが多く、時間が取れた場合でも「自由闊達な討論」にはほど遠い自己主張の投げつけ合いに終始した。やはり、本当の意味での討論が成り立つためには参加者はせいぜい10人でなければならないようだ。全体で数百人、分科会レベルでも数十人の参加者を集める年末フォーラムのような形態は、本質的に「自由闊達な討論」とは相容れない。紙上討論の場を提供するはずの『月刊フォーラム』は編集部の安藤紀典や天野恵一が私物化し、会員から遊離していただけでなく世話人会や事務局会議のようなフォーラム90sの中枢機関とも無関係に編集されていた。

第二の目標についての白川報告の総括は「組織を運営したり実務を担うことは運動家・活動家に任され、報告・発言や執筆の活動は研究者・学者が担うという分業関係は、根本的には打ち破れなかった」というものである。この総括は妥当なものと言わざるをえない。実務的な面での相互交流について言えば、初期の頃には毎月開かれる世話人会に大学の研究者もたくさん参加し、活気のある討論が行なわれていたが、年を経るにしたがって一人また一人と離れていき、最後は活動家ばかりになってしまったという経緯がある。去っていった人たちが悪いとは言いきれない。個人として参加していた者と組織から派遣されたような形で参加していた者との差なのであろう。理論的な面での相互交流については、活動家たちに大きな示唆を与える理論が誰からも示されず、研究者たちの知的関心を駆り立てる実践的課題も提起されなかったことが、相互の交流を中途半端なものにした根本的な原因だ、と言うことができる。発足当初は東欧革命やソ連の崩壊のインパクトがあったため、それなりに知的関心を共有することも可能だったが、そのインパクトが年々薄れていくにつれて各々がタコツボ化した「自分のテーマ」に埋没していった。これは第三の目標とも関わってくる。

さらにもう一つ指摘しなければならないのは、「活動家と研究者の知的交流」という理念の下で実際に集まってきたのは活動家でも研究者でもない人たちだったということだ。彼らはフォーラム90sの講座や講演会へ来て勉強し、それで満足してしまう。フォーラム90sで議論した成果を何らかの形で活かそうとは考えない。彼らにとってフォーラム90sは朝日カルチャーセンターの廉価版にすぎなかったのだ。

フォーラム90sはこのようにして本質的な問題を孕んでいたのだが、正式解散を前にして同趣旨の団体を新たに立ち上げようとする動きが二つ生まれた。「オルタ・フォーラムQ」と「アソシエ21」である。

11月15日付で出された「オルタ・フォーラムQ」の「発起人アピール」はフォーラム90sの継承をはっきりとうたっている。予定されている活動内容もフォーラム90sとほとんど同じだ。解散時点で250人いるフォーラム90sの会員を雲散霧消させるのは惜しい、ということらしい。発起人として名前を連ねているのは、池田祥子、斎藤日出治、志摩玲介、田上孝一、丹野清秋、村岡到、山川暁夫。イニシアティブを取っているのが村岡到であることは一見して明らかだ。

アピールは白川報告が指摘しているような基本的な問題には一切言及していない。この発起人たちはフォーラム90sの解散を行き詰まりによるものとは考えていないのであろう。たかが250人の組織を継承するという彼らの視野には、1,000人近くいた会員が四分の一に減ったという事実は入らない。そもそも、幼稚な理論しか持ち合わせていないのに自意識だけは超一流の村岡到は、「自由な討論の場を創る」というフォーラム90sの基本理念とは全く無縁の人物だったのだ。12月6日の最後の全体会でも、わずかに残った討論時間を奪い取って「韓国では米軍批判はタブーになっている」などと基調報告と無関係な論点をわめき散らしていた。彼の言動に閉口してフォーラム90sから離れたのは一人や二人ではない。「オルタ・フォーラムQ」はフォーラム90sのゴミ溜めにしかならない。

「アソシエ21」は12月10日付で「新たな世紀へ批判的知性の協働を!」と題した文書を出している。とくにフォーラム90sの継承を宣言しているわけではないが、やはり活動内容はフォーラム90sとほとんど変わらない。発起人として名前が記されているのは伊藤誠、橋本盛作、古賀暹である。

この「アソシエ21」に関しては仕掛け人がもう一人いる。いいだももである。彼は10月25日発行のフォーラム90sのニュースレターに「死者を自ら埋葬せよ」という短文を寄せ、その中でこう書いている。「いま・ここの世紀末危機の荒地は、資本主義の自由主義から帝国主義への世界史的段階転化をもたらした19世紀末の歴史的動態に匹敵する、20世紀から21世紀への世紀転換期のグローバルな危機の所産であり、そればかりか、そこにおいては近代文明とその出自である西欧文明そのものの人類史的位置が全面的に問われざるをえない。〔……〕この相転移直前の文明的臨界点での拮抗水準に、<フォーラム90s>は耐えることができず、志半ばにして挫折をよぎなくされた」「第三・千年紀の開幕まであと二年、有志とともにわたしは、<フォーラム21c>を広く立ち上げたい」。この「フォーラム21c」構想の実現が「アソシエ21」というわけだ。

たかが数百人の組織の命運が100年単位の文明史の転換と関連しているというのはボケ老人の妄想にすぎない。文明史の転換より重要なのは、フォーラム90sが行き詰まった直接の原因である財政危機が明らかになったとき、財政責任者だったいいだももは何の対策も出さず何の説明もせずに逃亡したという事実である。その人物がヌケヌケと“フォーラム90sは挫折した”と語ること自体が噴飯物なのだ。著名な学者や政治家には異常なまでに腰が低いくせに活動家や学生は道具のように酷使するこの老人は、まっとうな政治感覚を持っているかどうかを調べるリトマス試験紙として使うことができる。彼を肯定する人間は例外なく政治ボケだからである。

表に出ている三人の発起人のうち、伊藤誠氏と橋本盛作氏の意図はフォーラム90sの継承にあり、古賀暹氏の意図は“構改派系のフォーラム90sに代わるブント系のフォーラムの創設”にある。前者は「オルタ・フォーラムQ」の発起人たちと同じくフォーラム90sの縮小コピーをつくることしか頭になく、後者は10年遅れで構改派のマネをすることしか思いつかないというわけだ。「構改先に立たず」と言われたのも今は昔! 後ろ向きで出発する「アソシエ21」が21世紀を迎えることはないだろう。